二代藩主になれなかった青木正重

麻田藩初代藩主青木一重には子どもがおりませんでしたので、妹の息子を養子にし名前を青木正重としました。
正重は病弱ですぐに廃嫡されたという記述もありますが実はそうではないようです。

秀吉の四国征伐により一重が伊予の国(今の愛媛県)の一部を飛び領地として得た際には、正重が代官として赴任していました。そして一重が大阪冬の陣の和議の遣いとして京都で拘束されてしまい夏の陣に参戦できなかった際には、正重が伊予からも兵を率いて大阪城に入城して徳川軍と戦っています。

大阪城天守閣博物館にある「大阪夏の陣図屏風には青木家の旗印を掲げる軍勢が描かれていますが、陣頭指揮をとっていたのは正重なので描かれているのも青木正重ということになります。
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正重は大坂夏の陣で天守閣が炎上したので、配下の七手組の者に「軍は是迄なり、身を全くして時節を待て、是より何方へもおもひおもひにのき候へ」といって解散し、淀川を渡ったところに、本拠地豊島荘の岩田藤右衛門が50人ばかりで駕籠で迎えにきたので、一旦は豊島に潜伏した様子です(東京大学史料編纂所「青木伝記」)。

そもそも一重が京都で引き留められたのは、「大阪に帰ったら(当時徳川家に仕えていた)弟の青木可直を殺す」と脅されたからといわれています。戦後一重は大名として迎えられたのに養子の正重は廃嫡してしまったことは、夏の陣のことでの徳川家への配慮であったに違いありません。またそこで代わりに養子となった可直の息子重兼が2代藩主となるのは、もともと可直が徳川家直臣であったことからであるのでしょう。

正重はその後京都で出家し小寺道伯と名乗り、その後は摂津牧庄(可直の領地)に浪人のまま、寛文四年(一六六四)八月に八十四歳で亡くなるまで一生隠棲したといったことになっています。

 寛永期(一六二四~四四)に麻田藩領になった地域の史料を調査すると、この正重、小寺宮内右衛門という名で寛永期(一六二四~四四)にこの地方で新田開発をしたり、年貢決定にかかわったりしていて、二代藩主重兼を助け、「隠棲」とはほど遠い政治的活動をしていたようです。

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この記事へのコメント

デージー
2010年03月16日 18:35
初めまして!愛媛の一色と申します。
大変、驚いたのですが大阪夏の陣図屏風に描かれている(青木氏の旗印下にいる大将と思われる人物ですが紋所丸にニ引紋)からすると青木正重ではなく伊予の一色党の党首ではありませんでしょうか???
2010年03月17日 23:34
一色さん、コメント有り難うございます。
家紋を見てびっくりしました。
伊予の代官の一色家の家紋と一致してますね。
当時の党首の重次公は参戦していないそうなので、子の一色重政か重光かもしれませんね。この戦で亡くなったそうです。
よく見ると兵の何人かの兜にも一色家の家紋らしきものが見えますね。総勢約200余名が海を渡って参戦されたのですね。

さて率いる青木正重本人は、どこに描かれているのでしょうね?
これも「この人だ!」とわかれば面白いのですが…。
実は七手組の組頭(の代理)として秀頼の近くにいたのかもしれませんが…(^^)

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